おはようございます。太田雄一です。第102回

宗教観3「卒業論文はパウロ神学の問題点」

時間だけは豊富にあります。毎日仕事以外何もすることがありません。本当に何もないのです。酒は飲めないし、娯楽もない。乗組員の大半は毎年変わります。

彼らは毎日コントラクトブリッジに明け暮れています。船の売店(酒保)は一日に30分だけ空きます。でも何もありません。石鹸、歯磨き、タオル、そんなものです。もちろん酒は売ってません。食事だけは一日4食です。

そんな中聖書です。毎日毎日私はクリストファン・フェレイラになって考えていました。もし自分だったらどんな結論を出すだろうか?そんな視点で聖書を読んでみたのです。

「沈黙」のモデル クリストファン・フェレイラ

その中で、ドイツにブルトマン学派という一派があり、彼らは聖書は神の啓示によって書かれたものではなく、ある人間が特定の立場で書いた書物であると考えるべきであるとの考えを知りました。

当時極めてセンセーショナルな事であったと思います。私はこうしたブルトマン学派の考え方を踏まえ、約4年間船の中で聖書とともに過ごしました。

私の立場はブルトマン学派に近く、その結果「キリスト教はパウロの神学でありナザレのイエスには辿れない。」との結論を出しました。

マルコ福音書に書かれていることをよく読みますと「神は自らの心の中にいる」とイエスは言っています。そして、一番弟子のペテロはその件でイエスに良く叱られているのです。「お前はまだわからないのかと。」

マルコによる福音書

そのため、私のこの4年間の集大成である卒業論文は「パウロ神学の問題点(その回心と召命)」とすることとしました。

この視点で見ると当時のキリスト教に対するクリストファン・フェレイラの気持ち、考え方がよくわかります。遠藤周作「沈黙」その題名通り、すなわち「神の完全なる沈黙」なのです。

そして神は私たちの心の中に存在するのであって天上にはいないのだということ。だから天上の神は沈黙を保ったと言うことになるのです。

そんなことをしているうちに4年間が過ぎ、私は通信大学を卒業し、キリスト教についてのある程度の回答を持ち、自衛隊の幹部候補生の試験にも受かり再度自衛隊の幹部の道を歩みだしたのです。

しかし、この4年間キリスト教の信者でもない私が聖書を一日も身から離さずに毎日読んでいたのは、クリストファン・フェレイラの本心が知りたかったからに他なりません。

その結果は、多分自分もクリストファン・フェレイラと同じ境遇にあったならば間違いなく彼と同じ結論を出したであろうと思いました。

ナザレのイエスの言ったように「神は私たち一人一人の心の中にいる。」と言うことが本来のキリスト教の原点です。しかし、私にとってもこの4年間は得るものが極めて大きく、その後の人生を左右するほど強烈であったと思います。目標管理、目標達成のための全力投入法等のノウハウをつかんだからです。全て何事にも全力投入です。